「若き友への人生論」 森信三

若き友への人生論  (森信三の人生論講義)  G0701b 【L】
「若き友への人生論」 森信三 より

人生二度なし
人生論の一種として「人間の一生」を副題として考察するにあたって・・・、そもそもわれわれ人類が地球上に出現したこと自体が、驚異であり“奇蹟”だということを認識する。そして、「知性」をもってこの地上に降り立ったこと自体に想い到る時、我々は衷心から驚異の念を抱かずにはいられない。また、絶大な奇蹟として出現したわれわれ人類のこの地上的「生」が、いかに果(はか)ない短生涯かということも、まさに第二の不可思議事といってよいだろう。
我々の地上的「生」が二度と再び繰り返し得ないことを確認しつつ、地上の「生」を、いかに意義あるように充実して生きるかということには、いかなる人間にとっても異議のない至上の真理といってよいであろう。 p22

※“わたくし自身は”と断って書かれていることだが・・・(補足として)
われわれの死後の「生」いかにという問題については、人によりそれぞれ見解を異にするといってよいであろう。わたくし自身の考えによれば、人間が死して後ゆくべき世界は、いわば「生前の世界」ともいうべく、それを天国とか極楽とか名づけるかはそれぞれの宗教によって異なるとしても、いずれもこの有限なる地上的生の絶対根源を為すものでものでなければならない。 P30

人生の意義
・天賦の特質を発揮して、人のために尽くす p45
我々は、自己の実現すべき使命が如何(いか)なるものであるかは、容易に予知しがたい。だが、それにも拘(かかわ)らず、その人の態度が真摯にこれを求めて止まぬとしたら、神は次第にそれを啓示し給うといえるであろう。それは多くの場合、「好き」なことは「得手(えて)とか得意」という形態によって示されるようだ。即ち、自他共に認める長所として発現するといってよい。 P46
人間は自己の特質を発揮し実現することによって、生命の深い充足感が得られると共に、社会生活の内容を豊富にしてくれるのだろう。このように、人生の第一条件としては、人は何人も天から賦与された自己の特質を充分に発揮し実現すべきだといってよいだろう。 P48
また、我々人間が孤立的ではなく集団的な存在、社会的存在だということに基づくことを考えると、第二の条件は、「人のために尽くす」という箇条を掲げることになる。 P50

逆境に処する態度
「幸福は、最初は不幸の形をして現れるのがつねである」という言葉 ・・・ “隠岐の聖者” 永海佐一郎博士
われわれ人間が、不幸に対処する態度としては、不幸を回避しようとはせず、あくまでもそれに耐え抜くことによって、やがて全く思いもよらなかったような大きな幸福が与えられるということであって、この真理性については、自身も永い生涯の上に身証体認してきたといってよい。 p212
それは、自己を取り巻くもろもろの事物を、「自己を中心とする」観点から眺めるということ「我見(がけん)」から脱却せしめられる故、やがて十分に相手の立場を考慮した考え方となり、それ以後は全ての物事が順調に搬ぶようになるからであろう。 P223
当然のことながら、有限存在によって構成せられている無限大の集団である現実界は、常にその動揺転変を免れず、換言すれば、順境と逆境との無限に錯綜する無量の交錯態といってもよいわけで、いわゆる不幸とか逆境とか呼ばれるような状態を全然避けて通るということは、元来不可能なわけだ。 P216

〇人生における一日意義
「一日は一生の縮図」である
人間の一生を最終的に象徴しているものは、結局、われわれが日々過ごしつつあるこの一日一日の外にはないと思う。全生涯の中においても、この一日という単位ほどに、その始終がハッキリして、その完結性の示されている“時の区切り”は外にない。 p232-5
我々自身は「死」の直前まで生きてみないことには、人生の終末はわからない。だが、それでは遅きに過ぎる。自己の一生がどうなるかという点についてある程度予測しうるものがあるとすれば、それは「人生の縮図」としての一日一日の生活を如何に充実して生きるかということの上に、窺(うかが)いえるであろう。

・日常生活における人生の基礎的訓練
「一日は一生の縮図である」というのは、自分の一日の過ごし方を考えれば、自分の一生が如何なるものになるかは、ほゞ予断しうるといってよい。 p237
具体的に言うと、この一日一日が、ほゞ自己の予定通りに過ごされるとしたら、一生もそのようにかなりな程度まで充実した人生になるといえるであろう。さしあたって現在の生活において、今日為すべくして為しえなかった仕事を明日に延ばしても、何とか間に合う場合もないわけではない。だが、今日の仕事を明日に延ばした場合の「明日」と、今日為すべき仕事の一切を仕上げた場合の「明日」とでは、同じ明日であっても、その内容は大きく違うといってよい。
かくして我々の日々の生が、その日その日に全的充実の積み重ねである場合と、そうでない場合とでは、その人の一生の人生内容の総決算は、実に天地の“ひらき”を生じるともいえるわけだ。
我々は、日々のわが生活について、それを自分の一生の象徴として、そこに自らの人生の予兆を見る思いで、その全的充実を期せねばならないであろう。即ち端的には、その日の予定遂行に全力を挙げて取り組むことだ。

・「人生二度なし」を心に刻み、人生の意義を全うする
この地上の「生」は、長くともわずか百歳の寿を出でず、しかも人々の多くは「生の意義」を自覚するのに、ほぼ人生の半ばに近い歳月を、空しく彷徨のうちに過ごすといってよいであろう。 p241
われわれの一生は、まことに短しとも短く、まさに一瞬のうちに過ぎ去るともいえる。
機縁ひとたび熟して、自らの「生」の深義に目覚めたならば、それ以後の「生」は、文字通り「死」の直前に至るまで、ただ一筋に邁進すべきであって、そこにはいささかの遅滞も許されるべきではないはずだ。

〇死と永世について
何人もこれを避け難い「死」は、その人の人間的「生」の“終末”だということと、同時にまたその“完結”でもなければならないであろう。 p171
「死」を生の終末と見るか、生の完結・結了とみるかはについては、当の本人自身が、この地上の「生」は束の間の生に過ぎず、われわれは再びわれをこの地上に送り給える絶大なるものの懐(ふところ)へ還りゆくということわりを、よく身根に徹して体解し身証しつつ、自己の生理的な死に対して、いたずらに嘆き悲しむことなく、これを甘受する態度が、平生の日からすでに準備せられて、練り鍛えられているか否かがこれを決定するといってよい。 ・・・ これ普通には、宗教と呼ばれるものによって、導かれる処とせられているようである。
かくしてこの最後の一点に関しては、われわれは軽々しくこれをあげつらうことをひかえるべきだが、自らにとって確たる地点を希求すべきであろう。

〇60代の十年に果たしておくべきこと ・・・ 「人生の結実」を完結
ひとつは経済面の用意であり、何人もよく知っていることだが、今ひとつは精神的な面だ。しかし、精神面において如何なることがなされていなければならないかということになると、意外にも良く知られていないようだ。(うかつな人が少なくない) p156
七十歳を境にして開かれる人生の晩年を、いわゆる余生?として、真に意義あるものにする為の準備として、60代の十年間に果たしておかなければならないことの精神面のことはというと・・・
先ず、
(1) 「自伝」を完成する。できたら、
(2) 自分が生涯従事(従年)してきた仕事にについて会得した真理を、後にくる人々のために書き残しておく。ことだろう。
自分の今日あるを得たについては、幾多の人々の恩恵によるもの故(なので)、「自伝」として自己形成史を書くことは、そのまま又それら無数の人々に対する一種の報恩録というべき意味を持つわけであり、かくしてひとはいやしくもこの世に「生」を享けた以上は、何人も「自伝」を書くべき義務があると考えるのであって、この義務を如何に遅くとも七十歳以前に果たしておくでなければ、真に悠々たる人生の晩年は恵まれぬといってよいだろう。

【私のコメント】
大哲学者(森信三先生)が、以上のようなことを言っていることを初めて知り、大へん感激した!!
私は65歳で会社生活を終えるにあたって、自伝という言葉は使っていないが「自分史(会社編)」と称して、従事してきた仕事(会社生活)の歴史と、仕事に対するおもいを“私の流儀”という形で、文章にしている。
⇒ (仮題)「中締めを迎えた団塊SEの独り言」 A4(32頁程)として、お世話になった人にお渡しした
思いもよらず、私が勝手に?考えて書いてみたものと同じようなことが言われているのだと思い、嬉しく思うとともに大いに感激してしまった。またこの言葉に背中を押されて元気をもらったおもいで、自分史を書いてきたことに確信が持てたので、これらをさらに充実させて、新しく発信しようという思いを固くした次第です。 2016.07.01 南部栄司