「運力」 メモ

天伺史朗 「運力」より

・良寛の言葉

「災難にあう時節には、災難にあうがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候」

良寛は、未来の出来事というのは、サイコロを振るように、全く偶然に起きるものではなく、ある必然性を持った「流れ」のようなものがある、という立場に立っているのでしょう。

それを「運命の流れ」と呼ぶことにします。運命の流れが、災難に向かっているのなら、ジタバタして無理矢理そこから、逃れようと、しないで従容(しょうよう)としてその流れを受け入れた方がいい、というのが最初の文の意味です。

「なぜ病気になったか」、というのは難しい問題ですが、本人の生き方が、何らかの意味で宇宙との調和がとれなくなった時、それが病気という症状に現れるとも表現できます。

本人は自らの人生を顧みることなく、前と同じような生き方を続けることで、宇宙との不調和はさらに大きくなり、はるかに厳しい災厄につながる可能性があります。

むしろ、病気になって、それまでと同じ生き方を続けられなくなり、宇宙との不調和が解消できたとしたら、その人生はよりよい方向に変容していくでしょう。

つまり、病気という「運命の流れ」に抵抗しないで、それを従容として受け入れることにより、人生は好転する可能性があるのです。直面することにより、病気という災難が、災難でなくなってしまうのです。それが、「災難をのがるる妙法」ということになります。

気づき、というのは“意識の変容”を意味します。この場合には、病気によって死と直面できたことによる変容であり、ユング心理学の言葉で「実存的変容」と言います。それは、人間としての精神的に成長する絶好の機会なのです。

いろいろな”災難””逆境”は、心理学的には「疑似的な死」に相当しています。

疑似的な死というのは、「直面すると、実存的変容につながる可能性が高い」という原則があります。

運力とは

災難や逆境に直面し、その中に意味を見出す力。言い換えると、不運のなかから幸運をつかみ取る力。

“運命” は、しばしば海の波にたとえられます
ピーク(頂上)とボトム(底)が交互に到来する様子を、幸運と不運になぞらえるのです。波というのはポテンシャル・エネルギーと速度エネルギーが、お互いにやりとりすることにより、進行していくのです。その両方のエネルギーを合計すれば、ピークもボトムもなく、どの位置でも同じ大きさのエネルギーを保っているのです。

(私は)運命も全く同じ構造だと思います。
時間が止まらない限り、ピークだけの波というのは存在できません。ピークとボトムがあり、お互いにエネルギーを交換することにより、時間とともに運命が進行し、私たちの人生を形作っていくのです。

@ 運命の周期は、干支で象徴される十二年の周期です・・・と