福井新聞の特集記事「老境佳境(老いの達人を訪ねる)16.01.11」 では、
森村誠一さんが、「最近は90歳、100歳まで生きる方も珍しくない。数十年もある余生は、もはや“余った生”とは言いがたい。60歳前半までを前編とするなら、それ以降は後編。人生は“二毛作”以上が当たり前の時代となった。」と、言っている。
また、老いを考察した著書「老いの希望論」があります。

〇人生を3期に分けて捉えると、

・第1期は、 人生の仕込みを行なう青春時代。
・第2期は、 社会に参加する現役時代。
・第3期は、 いよいよ、会社などの組織や子育てから離れて、自分だけの自由な時間を手にする時期。

【参照】 インド古代の「四住期」という考えと、同じことだと思います。
「林住期」については、(投稿・ブログ欄の)エッセイ「林住期はやりたいことをする」 に詳しく書いています。

〇第3期には思わぬ落とし穴が、

一見、気ままに暮らせそうな第3期には、思わぬ落とし穴が潜んでいます。
殊に、組織や集団に忠誠を誓った見返りに、厚い庇護を受けてきた男性は、高齢期に向けた準備をしていないことが多く、第3期にうまくスライドできない人が目立つようです。

○第3期にある“2種類の自由”、

『何もしなくていい自由』と『何をしてもいい自由』がある。

現役時代に第3期の準備を怠ってしまうと、つい「何もしなくていい自由」を選んでしまい、生産性のない欝々とした高齢期を過ごすことになりかねないのです。人間は「何もしなくてもいい自由」の方に流されやすいものです!
逆に、「何をしてもいい自由」を謳歌するためには、どのようなことでも、自分の世界をもって、能動的に広げていくことです。何かを生産し、表現することで、生きているという実感が持てものです。これが「人生二毛作」でしょう。

 

松尾芭蕉の「不易流行」という言葉を、「過去ばかり見ている人は、心身ともに老いていく。過去に拘泥すれば、未知とは出会えない。」との解釈があります。
過去を見るか、未来を見るかの考え方で、現在の自分が“若い”か“老いている”かが変わってきます。過去に目を向ければ、今の自分が一番年老いているが、未来に目を向ければ、今が一番若いのです。過去と未来をつなぐ最先端が”現在”ではないでしょうか。

また、著書「老いの希望論」では、次のように言っています。
人間は自分に与えられた時間(寿命)から何一つも持ち出せない。人の人生は一度限り。老いの希望とは、与えられた時間を充実することだ。人生の第3期で希望の光を追及する者は、もはや老人ではなく、人生の未知数を追う永遠の狩人(かりうど)となる。
持ち時間が少なくなることは、人生が濃厚になること。つまり、濃厚な成就が希望だと。

(注)サミュエル・ウルマンの詩「青春」でも、同じようなことを言っています
  青春の詩(サミュエル・ウルマン) Youth