(ご案内)漢詩はこちらをご覧ください ☞ ④素愚の漢詩

水彩・スケッチ  「アトリエ酔彩」

コンピュータのシステムエンジニアとして、絵とは無縁の人生を送ってきましたが、「いわさきちひろ」のような淡い優しい絵に憧れて、60歳になって始めました。

絵は下手でも、描いているときは楽しい時間が流れていきます。

 

水彩作品の紹介 【ギャラリー】

私が描いた水彩作品をご覧いただけます。

スケッチふるさとスケッチ ☞   水彩 Gallery (sketch)

静物  ☞  水彩 Gallery (still)

 

私の作品トピック

・水彩作品集 R2+ 2020autumn (PhotoBook版)  new
☞ {工事中}

・水彩作品集 「ふるさとスケッチⅠ」、「ふるさとスケッチⅡ」 (PhotoBook版)
☞   ふるさと水彩作品集(PhotoBook版)

・友人の会社のカレンダー2017     友人の会社カレンダー2017に採用

・素愚(私)の漢詩作品の挿絵に使っています
  ・漢詩作品集Ⅰ(素愚)

・南部直登の記念冊子「盛春の詩」にある「七つ橋渡り」のジャケットに採用

浅野川の七つ橋 水彩ジャケット

浅野川の七つ橋の絵

 

気になる画家

・いわさきちひろ

私は、「いわさきちひろ」さんのような優しくて淡い絵を描きたいと思って、60歳になってから始めました。
程遠い道程だと思いますが、他人の評など気にせず、楽しい時間を過ごせればと思っています。
今は、まだまだ基本の「キ」にも及ばないのですが、目標を忘れずに描いています。

一度、安曇野ちひろ美術館まで ☞  https://chihiro.jp/azumino/

 

・聴光視風 (手塚雄二

「手塚雄二作品集」… 光を聴き、風を視る、「手塚雄二素描集」より

◆手塚雄二の写生 - 実景が神さびるまで

・斬新なフレーミング、緊密な構成、精緻で実直な描写。
物の持つところの急所を捉えた決定的な輪郭線、平凡なモチーフの本質に迫る非凡な切り口。
紙上に広がる『写生』は、単なる自然の模倣にとどまらず、すでに手塚芸術の始まりを告げている。

・写生の重み
手塚自身が「私はスケッチ重視なんです。写生を大きく引き伸ばして絵にしている。だからスケッチに時間をかけているんです」と述べているように、写生は画家にとって制作の起点(骨格)になるもので、言い換えれば本画へと至る道筋は写生の時点ですでに開かれているとも言える。事実、即座に本画を思い浮かべることができる写生も少なくない。

また高い描写力と構成力からなる写生は、緻密な描き込みによって密度が濃く、それ自体が鑑賞性に優れていることも忘れてはならない。

写生は本画と比べて親しみやすく、無防備に近づけるからこそ、シンプルに画家の力量を確かめることができるかも知れない。
特に時間をかけて自然と対峙した手塚の写生は、形態の把握が写生の目的でありながら、視覚の情報以外にも落雷のように響く瀧の音、鬱蒼と生い茂る草の匂い、木漏れ日の暖かさ、凍てつく冬の冷気など、様々な感覚を絵から読み取っていく楽しさがある。

写生は現場で自然と対話しながら描いていることから、画家の新鮮な実感(共感)絵になる風景との出会いにおける感興といったものを、本画よりも率直に伝えているのだろう。

・写生を通じて
本画は、現代人の感性をもって日本の美意識を解釈し、画家の内なる主題を風景に仮託して生成された、“神さびる”イメージが特徴。
そんな手塚芸術のひみつが写生にあると睨んでいる。

画家と写生
 手塚にとっての 『写生とは何か』、画家の言葉を借りるならば、「私の場合はあくまでも制作の基盤はスケッチにありますから、とにかく現実の風景を徹底的に描き込む。そうすることが新しい着想や手がかりを見つける一番の近道なんです。」という。 「制作の基盤」という言葉は、写生が制作という道程の出発点にあり、最終点に本画を見据えたプロセスの中に組み込まれていることを意味している。

また、写生は目で観察し、手を動かして外界のイメージを脳裏にインプットする行為であり、画嚢を肥やし制作の着想に出会う機会でもある。

あるいは「僕にとってのスケッチは、アスリートの体力づくりのようなもの。日頃、これをやっていないと、いざ大作に取りかかる時、アタマに描いたイメージを再現できないんです」 というように、写生という行為はイメージを思い通りにアウトプットするために必要な技術を磨く手段でもある。 👀

「取材の時はいつも、まさに神の啓示とでもいうような、ここだという瞬間があるんです。それが衝動ともなって、あとは一心不乱にスケッチする。このスタイルはいつも変らないですね」というように、画家は自身の感性と符合する風景を探し求めて描く

手塚作品の場合は、風景の背後にある文脈や伝統に寄りかかることなく、むしろその既視感からの脱却を図り、何もない場所(しかし画家にとっては大切な場所)に新しい価値を見いだす

写生のリアル本画のリアリティ

通常、写生は風景と本画を繋ぐ結節点である。風景(現実)と本画(虚)の不明瞭な間合いについて、写生が介在することにより、その距離を測る物差しを与えてくれる。この“距離”とは、手塚の場合に限って言えば、実景と画家のイメージの間にあるズレであり、この“距離”を明らかにすることは、手塚芸術を解体することに他ならない。

写生について画家は、「みえたとおりに、極力省略しないで、一番描きたいところから描き始めて、徐々に周囲へとふくらませていきます。ただし、描き進めながら、ちょとずつ美しい形につくりかえているのかもしれません」と述べており、写生における実景の改変が示唆されているが、「出来上がったものはただの写生ですよ」というように、写生がそのまま絵にあるわけではない。

写生をアトリエに持ち帰ってすぐ制作に取りかかる場合もあるが、多くの場合は一端距離を置き、時間をかけてイメージが深化するのを待つという。画家が抱く抽象的な観念あるいは想いが、具体相(=写生を通じて取込んだ実景)との出会いを契機として次第に形象化していく。 🌸

そして「ごらんのとおり、私の色彩は、すべて現実ではありません」と画家は告白する。「薄明りの中でスポットライトをあてたように浮かびあがってくる色合いは、私の内に見えるものであって、実際に取材の時に見た色の印象ではありません。また造形も写実的な正確さだけではなく、肉眼で見た感覚の印象を、よりはっきりと描出するためにつくりかえ、デフォルメしてあります。真実の印象というか、よりリアルに見えるように形も修正します」という。このように本画へと近づくにつれて画中の景色は客観に背を向けて主観の度合いが加速していくため、虚が混じり実景から乖離していく。「僕の絵は写真みたいにリアルに見えるかもしれないけれど、随分違うでしょう? リアルかどうかというのは、むしろ僕の心の問題なんです」と明言しているように、むしろリアルな実景から離れて、画家個人へと帰属しているのである。

一見徹底した自然観照のもとに生成された写実的な画面に見えながら、その実は画家の内省的なイメージとすり替わっているのである。そしてイメージの基底を支え、説得力を増しているのは、写生であることは言うまでもない。

かそけき美の永遠
1998年初の回顧展以来、画集や対談で、むしろはかない美への共感をくり返し述べている。そうした志向が明確化してからの発言であるが。

「雨より霧、霧より月夜が好き」
「陰と陽なら、陰の方に。より“かそけきもの”に、心を惹かれる」
「たとえば虫喰いだらけの葉っぱとア。クモの巣に葉っぱがただ絡んでいるだけとか、そういうのをきれいだなあと思ってしまう」
「心にちょっとだけ傷がある状態がいい。周囲のもの全てが感傷的で、美しく映える。散りゆく桜の花びら。沈みゆく夕陽。流れ、消える願い星」
「気配とか風の香りとか、目に映らないもの。そんなものを描いているつもりです」

2000年代に入ってからの作品は、まさにこの自然観で描かれており、本展の 「光を聴き、風を視る」 も同一線上にあるといえる。

◇「無窮の芸術
高校生になって美術部に入った彼は、運命的なことばに出会う。
「一切の芸術は無窮を趁(お)ふの姿に他ならず。殊に絵画は感情を主とす。世界最高の情趣を顕現するにあり」

図書館で横山大観の画集にあったこの一文に衝撃を受けた彼は、暗記するほど感動し、目指すべき道が見えた気がしたという。ただこの時、彼はまだ日本画を描いてはいなかった。油彩画の質感に違和感を感じ、水彩画を描いており、東京芸術大学の日本画を受験したのも、鉛筆デッサンと水彩画で受験可能だったためらしい。 👀

◇両面性
雄大な作風の大作と、繊細華麗な作風の小品。「静と動」「虚と実」「光と闇」「煌びやかと感傷」のどちらが涸れの本領なのか、一瞬迷う人もいそうだが、どちらも彼の本領である。

◇森羅万象 ― 内なる世界へ
1970年以降…、自然観と宇宙観、宗教観と人間観も大きく変わった。「自然と人間」は「宇宙と人類」、神の「真理」は宇宙の「摂理」へと変わり、無限や永遠は、宗教から物理学のテーマとなった。

彼の自然への共感を、ある意味で原点回帰的としたのも、この時点においてである。ただ人々は今、「花鳥風月」に神仏を見た時代も、科学として宇宙と自然を見た時代も知っている。正確に言えば、時代や社会、知識や価値観の変化とともに、人間存在の規定や定義も更新されていく。その現在形が、かれの「無窮」の美の追求なのだろう。

2010年代に入ってからは、むしろ静的な作品が多くなっている。「光を聴き、風を視」ながら、すでに五感で森羅万象に向き合っているように見える。実景を描いてはいるが、茶の湯に触れて深化したという「内なる世界」に、より向かい合い始めている様子をここに見ることができるだろう。

【補足】
・神さびる :   神らしく行動する、神にふさわしいふるまいをする。神々(こうごう)しい様子を呈する。古色を帯びて神秘的な様子である、古めかしくおごそかである。古風な趣がある、古めかしくなっている。

・画嚢 :     筆、絵具などを入れる用具。多く、写生用に肩にかけるなどして携帯する。    ⇒ 転じて、絵の材料や絵を描(書)く動機となる思想などのたとえ。
・かそけきもの : 幽(かそ)けし。かすかである、淡い。・無窮 :    きわまりのないこと。果てのないこと。限りのないこと。また、そのさま。無限。永遠。無彊(きょう)。 むぐう、ぶきゅう。
・情趣 : おもむき。しみじみとしたあじわい。風情の情味。
・趁(お)ふ :   ゆきなやむ。おう、追いかける、従う。おもむく。つけこむ、便乗する。
・煌 :  きらめく、かがやく、きらびやか。輝くばかりに美しいさま。明らか。さかん。火の光。

 

・グランマ・モーゼス(モーゼスおばあさん) ・・・素朴画家   H9.11

「遅咲き」という言葉があります。
過去を振り返るのではなく、これからの人生の第四コーナーを楽しみながら味わうということでしょう。

グランマ・モーゼスは、12歳から他の農家に住み込んで働いた。貧しい農家に生まれ、おそらく人生の前半は相当過酷なものだったに違いないと思われます。だが、

70歳で絵を描き始め、
80歳で画家としてデビューし、
101歳で亡くなるまでに、1600点の作品を描いた。

人生の第四コーナーを、好きな絵を描き三昧ですごすことが出来て、息を引き取る時にはおそらく幸福感に満たされていたのではないでしょうか。

モーゼスの絵の中には、自然が、生活が至るところに満ちあふれている。絵を見れば、誰だって優しい気持ちになれるでしょう。
また、著書「モーゼスおばあさんの絵の世界 ー田園生活100年の自伝」の訳者(加藤恭子さん)は「米国マサチューセッツ州で暮らしている時に、彼女の作品に触れ、絵ばかりでなく、その生き方に心を揺さぶられました。」と言っています。

素朴絵の作品紹介サイトへリンク ☞  https://matome.naver.jp/odai/2138551075009088501

 

・永沢まこと

「絵が描きたくてたまらない」 永沢まこと より
・・・ 線で描く、好みの色で!

そっくり色より、好みの色
1) 混ぜすぎをやめる
混ぜれば混ぜるほど“濁る” ・・・ 混ぜ色を2色にとどめる
2) 丁寧に塗り重ねる ⇒ 線描きの2・3倍の時間をかける
水分が完全になくなるまで乾かしてから、重ね塗りをする
3) 生活環境の色を、きれいな色に変える

【ポール・ゴーギャン(色名人として知られる有名な画家)】の言葉
もし、木の緑色が美しいと思ったら、君が一番美しいと思える緑色を塗ればいい」

宇宙人になった気分で見つめる
一度よく見た後の「ソラ描き」、
つまり見てスグに描かずに、頭の中にためることをしてから描くことが、とても有効です。
そして、「ええい」という気持ちで1本(線)で決めるように描くこと。
描きながら探していくような「ためらい線」のような“いじましい”ペンの動かし方は決してしないように。
しかし、どうしても線の失敗はあります。その場合は、かまわずに「重ね線」を引いて、古い線が残っても構いません。
・・・ これがかえって、いい結果を生んだりしますので、心配なく。

どんなふうに絵を描き始めたらよいか、どうしたら絵が上手になるのか

【江戸中期の国学者:本居宣長】は、学問の学び方の一説で、
「詮するところ学問は、ただ年月長く倦まずおこたらずして、励みつとむるぞ肝要にて、
学びようは、いかようにやってもよかるべし、さのみかかわるまじきこと也。
いかほど学び方良くても怠りてつとめざれば功はなし」

・・・ ということは、 描き始めたら、とにかく描きつづけることか

オフィシャルサイトへのリンク ☞  http://makoart.exblog.jp/

 

・奥田侑太郎

「北アルプス展望美術館」の常設コーナーまで ☞ http://azumino-artline.net/ikeda/outline.php

 

・松井ヨシアキ

・ゴッホ

 

絵のはなし