新鮮に感じた漢詩の話

アマゾンでたまたま目にとまり、「漱石詩注(吉川幸次郎著)」を買ってみた。たかが序だと思って読んでみると、吉川幸次郎先生の奥深い話に感銘してしまった。

漢語の詩に関するかぎりと断って書かれていることが、私にはたいへん新鮮に感じた。ちょっと紹介してみたくなり、先生のことばを書いてみた。

詩は“直観”の言語であるとするならば、漢語の詩に関する限り、思索を排除した直観のみでは、充実した詩を得難い。漢語の本来もつ“簡潔”という性質は、飛躍の多い直観的な言語だ。それだけに簡潔の裏に、あるいは前提として、思索の熟慮を蔵しなければ、飛躍は充実した飛躍とはならない

むろん詩として必要なのは、一読して飛躍の爽快さを感ずることだが、再読して、飛躍の前提となった熟慮を追跡し得るものでなければ、よい詩にはならない

また、単に「風雲月露」の美しさを、感覚的にとらえ、詠嘆するだけではいけなくて、そこに人間の運命なり使命への関心が、反映しなければならない。もしそうでなければ、飛躍と見えるものは、単なる粗笨(粗雑)な豪語、あるいは軽佻浮薄な機智となって、空虚な音声をつらねるにすぎない。

幸か不幸か、日本文学の本来もつ伝統は、漢語の詩の要求する方向と必ずしも一致しておらず、詩はいかなる意味においても思索を忌避する方向が、日本の詩の伝統として有力だった。過去の日本文学は、「情操文学」が過半であり、またその系統のものがすぐれているといわれてきており、すぐれた漢語の詩を容易に生みだされる方向性ではなかった。この矛盾が古今往来、日本人の漢詩をちぐはぐな、面白くないものとしてきたと見うけられると。

漱石の詩については、漱石文学の一部分としてあり、結局は素人の漢詩である要素をもつと評していながら、そうした歴史の中でも漱石の漢詩は例外的に「思索者の詩」であり、思索者であることが漢詩を甚だ充実したものとしている。その詩は日本人の漢語の詩としてはめずらしく優れていると、吉川幸次郎ははっきり言っている。

漱石自身が、俳句よりも漢詩を愛重したのも、思索を託するのに、より適すると感じたことが、有力な原因の一つとして働いていようと。