「良寛詩 草堂集貫華」内山知也より

「良寛詩 草堂集貫華」 (内山知也) より

〇良寛の作詩態度

 「不写心中物 雖多復何為」 心中の物を写さずんば、多しと雖も復何おか為さん
~ しかし、あなたの「心中の物」を表現しなければ、いくらたくさん作ったところで何にもなりませんよ。

良寛は詩を作るという芸術行為を、「詩は心の表現である」という『詩経』の毛序の精神を借りて、詩的表現の命題にしている。 作詩という行為の根幹に、自己の精神そのものの表白がなければならないとするのが、良寛の詩の立場である。

「写心中物」という命題は、禅の修行の過程において良寛の心の中を占めるようになった。

詩韻をきめて、それに合わせて作る題詠などには、何の芸術性も価値もないと言い切っている。なぜなら、そういう詩には作者の豊かな含蓄も、しみじみとしたしらべも表現されないからだと考えていたのである。

詩の「体」つまり本質は、「心中の物」が表現されることで、これがない詩は本当の詩ではない。第一に読む人に何の感動も与えていないではないか、と良寛は詠じている。古文辞派の漢魏・唐詩の提唱も性霊・神韻説の主張もそれは作詩のさいに考慮すべきことだが、その形式の追従や模倣では、作者自身の精神が技巧に負けてしまい、消滅してしまうではないか。詩句の表現技法は「用」であり、詩精神は「体」である技巧にばかりこだわっては、作者の精神の伝わらない作品を作り続けることになる、と戒めている。