守(修)・破・離 とは
守(修)・破・離 とは
◇方針を実行するための基本姿勢
「守(修)・破・離」とは、物事を学ぶ時の最も大切な基本姿勢である。武道、華道に限らず、先人たちはおよそ「道」を極めるためにこの三つの段階を経た。私は、これを「方針を実行するための基本姿勢」と定義する。
“守(修)”とは、師匠の教えをそっくりそのまま守ることである。すべて、師匠の教え通りにやる。それ以外のやり方をしてはいけない。これは、師匠は長い年月の間修練を重ね、ひとつのものを築き上げてきたからである。
ゆえに経験のない者が批判をすることは、学ぶ姿勢がないのも同じであり、絶対に向上発展はあり得ない。
まず最初は、師匠がどのような修練のもとにどのような考え方、どのような態度・姿勢を持っているかをそっくり学ぶ。
いわれたことに違反しない。これが基本である。守りきる。
“破”とは、師匠のものを自分のものにした上で、自分の新しい工夫と努力を加え、師匠の教えから少しずつ抜け出し、破ってゆく段階。石の上にも3年、「守」に3~5年くらいかけないと到達できない。
“離”とは、自分の工夫と努力によって師匠の教えから脱皮し、さらに修練を積み重ねて自らがひとつの境地を築き上げることである。
守・破・離についての、いろいろな説明
守(しゅ)・破(は)・離(り)
稽古を積む課程、すなわち修行における順序を表す言葉で、独自の境地を拓く、道すじとして、師の流儀を習い、励み、他流をも学ぶことを重視した教えである。
一般的には、「守」は、師についてその流儀を習い、その流儀を守って励むこと、「破」は、師の流儀を極めた後に他流をも研究すること、「離」は、自己の研究を集大成し、独自の境地を拓いて一流を編み出すこととして説明される。
武道における修行が人生に深く関わっている以上その修行には限りがない。すなわち限りなき修行に没入することを最終的には求めている言葉である。
☞ [参照] 武道論十五講、不味堂出版
「守」とは、師に教えられたことを正しく守りつつ修行し、それをしっかりと身につけることをいう。
「破」とは、師に教えられしっかり身につけたことを自らの特性に合うように修行し、自らの境地を見つけることをいう。
「離」とは、それらの段階を通過し、何物にもとらわれない境地をいう。
修行をする上で、心・技・気の進むべき各段階を示した教えといえる。
☞ [参照] 全日本剣道連盟居合道学科試験出題模範解答例、月刊剣道日本編集部
伝統を受け継ぐ者にとって忘れてはならない、特に武道にとっての教えが「守破離」である。
「守」とは、師や各流派の教えを忠実に守り、それからはずれることのないように精進して身につけよ、という意味である。
「破」とは、今まで学んで身につけた教えから一歩進めて他流の教え、技を取り入れることを心がけ、師から教えられたものにこだわらず、さらに心と技を発展させよ、という意味である。
「離」とは、破からさらに修行して、守にとらわれず破も意識せず、新しい世界を拓き、独自のものを生みだせ、という意味である。
「守破離」は単に武道の世界だけの教えではない。学問も経営も技術も、すべてにあてはまる。師に教えられて師に止まっていては発展はない。古武道に出発して古武道の中で止まっていたのでは、後継者としての存在価値はない。師をしのぎ、伝統を越え、親を超越して、より高い次元に発展成長してこそ文明の進歩がある。「守破離」とはその意味の言葉である。
☞ [参照]活人剣抜刀道、叢文社
「守破離」の「守」とは、武道を学ぶにあたって、師や各流派独自の教えや形、技などを忠実に守り、それからはずれることのないよう精進して、その教えを堅く守って身につけることである。
「破」とは、今まで学んで身につけた教えや形、技が確実に身につき、修行がさらに進んでいけば、自然と他流の師の教えも心がけ、他流のよい技を取り入れていく。そして自己の守ってきた形の技を破って、心と技を発展させていくのである。
「離」とは、破の状態よりさらに修行していくうちに「守」にとらわれず、また「破」も意識せず、おのずから一つの形、流派を離れて新機軸を開いて、独自の新しいものを生み出して、修行していくことである。
この「守破離」の精神は単に武道ばかりでなく、人間の生き方すべてにとって大事なことである。
☞ [参照]日本刀精神と抜刀道、BABジャパン出版局
空手道でも、剣道でも、書道でも、茶でも、花でも、その修行の過程を「守」・「破」・「離」の三段階に分けている。
「守」というのは、一から十まで型通りにやることであり、それが一通り終る頃になると、型にはまり融通のきかないものになるので、「破」の段階に入れというのです。「破」とは文字通り「破る」ことで、型にはまったことを破って行く努力をすることであり、一寸考えると何でもないことのようですが、それは「守」の段階をふまない人の考えることで、本当に「守」の型にはまった人がそれを破るということは実に容易でないことです。
最近、私たちの空手の中で、型が大変に上手であるが、組手が出来ない人たちを見かけます。大会でも型は型、組手は組手というふうに分けているようです。本当は型が上手で組手が強いという様にならなければならないと思います。一つ一つの技が上手になれば、組手に生かせなければ意味がなく、「守」から「破」ることがむずかしく、出来ないのではないかと思っています。
ところで、「破」の段階を卒業すると、はじめて「離」の段階に入るのですが「守」からも「破」からも離れて型通りやらなければならぬ時には型通りにやり、型を破る必要のある時には、これを破りそれこそ「心の欲する所に従って矩をこえず」の境に達するのですが、それが仲々容易のことではなく、それこそ、一所懸命-一所懸命-一所懸命のことなのです。というのは、一応は「守」-「破」-「離」-の段階を経て、自由の境地に遊び得たと思っているうちに、あるいは内的にあるいは外的にその時の自己の力量以上の問題にぶつかると、これではならないという自己疑惑、もしくは自己否定に陥り、更により高き段階の新たなるものを求めて、これに対して「守」の修行に進み、「破」に進み、「離」に進み、守破離-守破離、と進むのが真面目な人生のすがたと思います。