おかしな授業参観
(おばあちゃんが大学で孫の講義聴講)・・・あゆみちゃん先生の講義参観
家内の実家へお年始にうかがった時のことだ。
みんなから「おばあちゃん」と呼ばれている家内の母が、突然「授業参観に行きたい」と言い出した。私の娘は東京で大学教員をしており、要は孫の講義姿を見たいという意味だった。卒寿を過ぎて、最近では気弱な言葉を聞くようになったが、先に旅立った義父への土産話に加えたいと本気で言っている。私も家内も、前々から娘の仕事には興味津々。これ幸いと便乗し、おばあちゃんのエスコートを申し出た。機会があれば、娘の講義している姿を一度は見たいと思っていたのだ。
そうはいったものの、はたして部外者が大学の講義を見学などできるのか。しかしとうの本人は「いいよ」と一言。娘いわく、勤務先は駅から遠く足の悪いおばあちゃんには無理だが、非常勤先の大学ならば交通の便もよく、また大教室なのでこっそりとモグり込むことも可能とのこと。こうして計画は一気にまとまり、三人で東京へ行くことになった。
当日は穏やかな秋晴れ。日差しに映えた中庭を通ると、蔦の絡まる古い洋館のような校舎が目に飛び込んできて、ここは本当に都心なのかと目を疑う。そんな美しいキャンパスで、民法の講義を受けた。
そわそわしながら一番後ろの席に座り、始業を待つ。すると、いくつになってもつい「ちゃん」づけしてしまう娘が、堂々と先生の顔をして入ってくるではないか。講義は身近な話題を交えたわかり易い内容で、素人目にも興味深いものだった。さらに、講義終了と同時にチャイムが鳴り、そのタイミングの正確さにも驚かされた。やはりプロなんだなと納得すると同時に、一人の父親として誇らしくも思った。
素人が言うのもなんだが、講義に先立って配られたレジメは見やすくできていると思ったり、民法の講義は身近な話題を例えに使ったりして、わかり易くやさしい講義になっていたのかと、感心しきっているふつうの親父(おやじ)になってしまっていた。
三十歳を過ぎてもおさな顔の娘だが、都内の大学に進学し、十年以上の長い仕送り期間の末にようやく自活できるようになった時は肩の荷が下り、家内と「よかったね」と酒を酌み交わしたものだ。それでも、本当にやっていけるのかという親の不安は残っていたが、今回のれっきとした先生としての娘の姿を見て懸念はきれいに消え去ってしまった。
当日は、秋の日差しに映えた中庭を通っていくと、蔦が絡まっている古い洋館建ての校舎とチャペルが目に飛び込み、ここが都心かと一瞬疑ってしまった。
無事に講義を受けたあとで、古い学生食堂で一緒に食事をした時のことだった。
娘が「お父さん、ちゃんと講義を聞いていなかったでしょう」と口を尖らせてプイと怒っている。私は真剣に受講していたつもりだったのだが、じつは持参した本を開いたり、トイレに行くために席を立ったりしており、そうした様子をバッチリと見られていたのだ。ということは逆に、教室全体に気を配りながら余裕をもって講義をし、学生をよく把握しているということでもある。私の席の周囲でも、居眠りをしたりスマホを触る学生が何人かいたが、その姿もちゃんと見えていたのだろう。あたふたと言い訳をしながら、妙に感心してしまった。
これで、おばあちゃんは天国のおじいちゃんへの土産話として、孫の頑張っている姿を報告できるのではないだろうか。また、おばあちゃんには安心してもらったと同時に、家内の親孝行も達成できたようだ。