「酔彩山房 素愚散人」と名乗っています

 雅号は「素愚」  南部栄司(本名)

私の活動拠点を、こう呼んでいます。
・漢詩や文筆(著作)の場合は、漢詩人・作家の書斎として「酔彩山房」
・水彩の場合は、水彩・スケッチ画家のアトリエとして「アトリエ酔彩」
・コンサルティングビジネス(個人事業)の場合は、オフィス兼工房として「ビジネスシステム工房」

 

大漢和辞典ほかの辞書表記より説明してみますと、

「素」

◎ぢみ(地味)、質素、飾りのないこと、巧偽(たくみないつわり)のないこと
・はじめ、本始、根本
◎まこと、真情、心のそこ、(心の向かうところ、志)
〇徳あって位のないこと
・そまつな、かざりのない、もとのままのもの
・白絹(しろぎぬ)、生地のままの白い絹・白糸、むじ(無地)、無色
・ただの、何も加わっていないことを表わす
◎ひろい

「愚」

◎ばか正直、正直でかけひきがない
◎自己の謙称
〇おろか、才知がはたらかない、是非の弁(わきまえ)~がない

「酔」

・酒に酔う、夢中になる、正常な精神状態を失う
+麦酒(ビール)が大好きで、少し酔って絵を描いたり、漢詩を創ったりして、至福の時間を過ごすこともあります

「彩」

・あや、いろどり、いろ、つや、ひかり、たくみ、かげり、もよう
+ 色彩(あざ)やかでやさしい水彩画を描くことが大好き

「酔彩」・・・酔墨(酒を飲みながら書いた書画)という詩語があるので、突飛な語ではなさそうだ(N)

「山房」

・書斎、書室、風流な人の住居
+ 漱石生誕の地に近い早稲田南にあり、作家として10年間を過した家賃35円の借家を「漱石山房」と呼んでいた

漢詩人漱石の雅号「枕雲眠霞山房主人」を使ったこともあり、漱石の詩に「乾坤一草亭」の五字がある

「散人」

・役に立たない人、無用の人物、無能な人
・俗世間を離れて気ままに暮らす人、官途につかない人
◎文人などが雅号の下に添えて用いる語
+ 石川忠久翁は「岳堂散人」とも称しておられる

 

+ あとで知ったことだが、行徳哲夫は次のように言っているようです

また、男の魅力、人間の魅力は、 素・朴・愚・拙の四つの言葉で表すことができると言っている。
これは、私が雅号を決めて何年も経った最近になって知ったことですが、面白いのでメモしておきます。

「素」 素のよさは何も身につけないこと。
木を見るとわかる。枝葉をつけた木は見栄えはいいが、滋養は枝や葉が吸ってしまい、幹は弱る。
枯れ木は見栄えこそないが、実に力強い。これこそが「素」の魅力だ。

「愚」 アホになれる、馬鹿になれることそういう人物の下にはたくさんの人が集まる。
この人のためにと皆が思う、これが本当の利口というものだろう。
目から鼻に抜けるような才たけた人間は慕われないし、人も寄り付かない。利口は馬鹿であり、馬鹿は利口なのだ。
馬鹿こそ力、馬鹿力のゆえんだ。

また、『感奮語録』では、現代は「素・朴・愚・拙」な人が少なくなった。スマートな人、要領のいい人、アピールがうまい人の方が、むしろ、もてはやされるようだと。

「素」で飾らないで、自分をさらけ出せる人は強い人だ。自分に幸福感があり、自分に自信があるから、自分を出せる。

「朴」の泥臭くて、田舎っぽい人は、現代ではあまり受けない。しかし、朴訥(ぼくとつ)とした人間こそ、味がある。
長く付き合えば付き合うほど、それはわかる。情があるからだ。

「愚」は本当のおろかさではない。子供のような気持ちで、喜怒哀楽が出せる人であり、熱く燃えることのできる人だ。
理屈っぽい人は「愚」にはなれない。理屈では人は動かない。「感動」という言葉の通り、人は感じて動く。

「拙」は要領のよくない人だ。へたくそだが、真剣であり、だからこそ、コツコツとわき目もふらずにできる。
器用な人間は、何でもできてしまうため、地道な努力を馬鹿にする。

本当に力がある「有力な人」は、素・朴・愚・拙の人だとも言っている。
魅力があるのに、目立たない。力があるのに、ひけらかさない。真の有力者なのに、偉そうにしないし、分けへだてもしない。
我々は、「無名有力」を目指し、 常に、素・朴・愚・拙の人でありたい。

 

+ 辰濃和男の「四国遍路」では、次のように書いてありました。これも、後で知ったことです。

「素」を大切にと言っており、簡素、質素、素心、素木の素だと
素という字には、根本、生地のまま、飾りのない元のままのもの、などの意味がある。
暮らしの根っこにあるもの、虚飾をはいでぎりぎりの生地を表現したもの、それが「素」だ。
素という字には、暮らしを律する根元的な力があるように思えてならない。素でありたいと思う。